ちょっと脱線する。
学校の先生でもありながら舞台でも踊り、それで稼いでいた時代もある。普通に日給(週給)でお金をもらっていた。しかし舞台に乗っていないリハーサルなどの分も当然拘束されるわけで支払われる。その分のお金はチケット収入では賄えない。もちろんスタッフ(舞台、照明、音響など)も同様だ。舞台芸術の世界は長くお稽古場の生徒さんがチケットノルマとして抱える「お稽古場システム」と、助成金で成り立ってきた。かつては王様貴族といったパトロンが支えてきた。
ある種のサービス業のようなものでパトロンの好みに合わせて、とかある程度お客さんの層(対象年齢やテーマを考えるなど)に合わせてということが起こる。これは舞台芸術に限らず起こることで、肖像画が実際よりも美男(当時の基準値によるもの)とかそういうこともある。
このパトロンが国、や県といった公的な場所となった時、この国や県の方向性に合うように私たちは表現活動を変えていく必要があるのだろうか。
海外で暮らしている頃、日本の友人がジャパンファウンデーションなども支援で公演を行うことが度々あり、当然みにいくと、それは”buto”を楽しみに来たダンサーや日本好きのおじさまがたであふれていた。ロンドン時代の場合は某テレビに出ている俳優目当ての日本人コミュニティ。つまり、海外での公演といっても日本の税金で補って、「公演させてもらう」現象。招聘とはいってもくるなら場所貸してあげるというようなことに過ぎなかったりする状況をみながら、結局国に頼らないと商売にならないのかなと思った。
実際自分のカンパニーの公演でもフランスは買い取ってくれるけれどチケットを買う文化もないから、全額ブリティッシュカウンシルが出して、公演を行い、将来の劇場文化を育てようとしている試み(植民地的でちょっと怖い考え方だと思う)みたいなのもあったので、似たようなものだと思う。一定の大きさのカンパニーに重点的に資金を回し、輸出産業の一つとして芸術文化を挙げているそんな姿も見ている。
そのバランスを見ながら作れる人もいるし、それはすごいことだと思うが私にはとりあえずできていない。本当は野菜を作る農家さんが収入を得るように、身体を気持ちよくさせたり、心を震わせたりすることで収入をえられ回っていくようにできればいい。今現状の舞台芸術の形は公的資金を入れるような規模のものでしか評価基準に上がらないし、それだけの広報費用、スタッフ費用などを負担できる経済力をつけないと成り立たない。しかし本来は身体があればできることだったはずであり、鳥取に来るまではそのように活動してきた。大きく広げないけれど、でもいいものを作る。
最近は「南方曼荼羅」(mobius)とか「意識と空間の接続」(死者の書)とかわかる人にはわかるけれどわからない人にはわからない、そもそももう一つの作品を知らないと見えない作品になっていて、私の力で構築しているものではなかったときに、助成金が、収入がとかいっている暇がなくなってきている。建国体操もたまたまとはいえ、いろんな偶然が重なって空から降ってきた。今、このタイミングで、やらねばならないことをする。方違えとか本当に大変なのだ。そういう状況だからプロとは言いがたい現状があり、これからもそうなのだと思う。
密かに一遍上人型(芭蕉さんにしておけばというお告げもある)プロの形とか、農業並行型プロの形とか、そういうことに憧れる。依頼があるものは基本引き受ける。でも依頼じゃなくやっているものの方が実は重要だったりする。
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